ロマン派を代表するピアニストと聞いて、まず連想するのが「フレデリック・ショパン」ではないでしょうか。
同じ世代にはピアノの名手として知られるフランツ・リストやロベルト・シューマンがいます。リストは、ショパンの親しい友人でもありました。
クラシック音楽ファンのみならず、世界中の人々に愛されるショパンは、子供の頃から卓越した才能をもち、若くしてその才能を開花させ、パリで音楽家として活躍しました。
繊細で美しい旋律を奏でるショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれ、多くの人々を魅了。
このページでは、そんな偉大な功績を残したピアニスト、フレデリック・ショパンのフランス・パリでのゆかりの地をご紹介していきます。
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このページの目次
フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin)とは?

フレデリック・ショパンは、1810年にポーランドのŻelazowa Wolaで生まれました。ショパンが7ヶ月のとき、父親の仕事の都合でワルシャワに移ります。
フランス人の父Nicholas Chopinはヴァイオリンとフルートを演奏し、ポーランド人の母Justyna Krzyżanowskaはピアノを弾く音楽一家だったため、ショパンは幼い頃から音楽に親しんでいました。
ショパンが6歳のとき、音楽家で音楽教師のWojciech Żywnyにピアノを師事。
1817年、ショパンが7歳のときに《ポロネーズ第11番 KK.IIa》と《ポロネーズ第12番 KK.IVa》を初めて作曲。
1818年にはラジヴィウ宮殿で開かれた演奏会にワルシャワの著名な音楽家たちとともに参加し、Adalbert Gyrowetzのピアノ協奏曲第5番ホ短調を演奏しました。
さらに1821年には、65歳を迎えた恩師ジヴヌィの誕生日を祝い《ポロネーズ第13番 KK.IVa》を作曲。
1823年、ショパンはワルシャワ高等学校に入学します。
1826年、16歳のショパンは高等学校の最終学年に進むことを諦め、作曲家で音楽教育家Józef Elsnerの指導の下、ワルシャワ音楽院で学ぶ。1829年に首席で卒業。
1830年、ショパンがウィーンへ旅行中、母国ポーランドでロシア帝国の支配に対する武装蜂起「11月蜂起」が勃発します。
母国へ戻ることを諦めたショパンは、1831年9月にパリに移住します。
パリでは、Hector Berliozをはじめ、Franz Lisz、Felix Mendelssohn、画家Eugène Delacroix、Delfina Potocka伯爵夫人などの多くの芸術家や著名人と出会い、交流を深め、音楽家としての名声をあげていきます。
1832年、ショパンはラジヴィウ公爵に伴われて、ロスチャイルド男爵のサロンを訪れます。
男爵夫人はショパンの音楽才能に魅せられ、娘のシャルロットのピアノ指導を依頼。
それにより貴族や資産家などがショパンにピアノ指導を求め、経済的に余裕ができます。
ショパンは公開演奏会を行うことはほとんどなく、主に貴族や芸術家、文学者などが集まるサロンで演奏を行いました。
1835年、ショパンはボヘミアの温泉保養地「カルロヴィ・ヴァリ」で両親と再会。
ここで3週間両親と過ごした後、寄宿舎学校時代以来の友人であるFeliks Wodzińskiを訪ねます。
そしてフェリックスの妹Mariaに出会い、美しく成長したマリアに恋心を抱きます。
1836年、ショパンはマリアにプロポーズし、マリアはそれを受け入れます。
ヴォジンスキ家は、ショパンの健康状態への懸念から婚約を破棄。
ショパンは幼い頃から病弱で、絶えず肺疾患と闘っていました。
ショパンは、リストの愛人でパリ社交界の花形だったマリー・ダグー伯爵夫人からGeorge Sandを紹介されます。
このときサンドは、天才音楽家ショパンに好意を持ちましたが、ショパンのサンドの印象はあまり良いものではありませんでした。
マリアと破局を迎え、精神的なショックを受けていたショパンは、1838年にサンドと再会。サンドから熱烈なアプローチを受け、間もなく2人の交際が始まりました。
サンドには、体の弱い息子モーリスがいました。
医者に暖かい地方での療養をすすめられ、サンドは2人の子供を連れて地中海に浮ぶスペイン領のマヨルカ島へ。
その頃、ショパンも長い間患っていた結核の症状が悪化し、病気療養を理由に一緒に滞在します。
しかし冬の悪天候で、ショパンの健康に深刻な影響を及ぼしたため、1839年にマルセイユを経由してサンドの別荘があるノアンへ移ります。
この頃ショパンとサンドとの関係に亀裂が入り始めます。その原因となったのが、サンドの息子モーリスと娘ソランジュでした。
体の弱いモーリスを何かとかばう母サンド。
それに反発するソランジュは、モーリスと喧嘩するとショパンに泣きつき、ショパンが彼女をかばったため、サンドとショパンの関係がぎくしゃくし始めます。
ショパンとサンドの関係に致命的な亀裂を入れたのが、ソランジュと結婚した彫刻家Auguste Clésingerが起こしたノアンでの乱闘事件。
サンドにノアンの館から追い出されたソランジュとクレサンジェは、ショパンに助けを求めました。
ショパンが2人をかばったことにより、9年間続いたショパンとサンドの関係は破局を迎えました。
1848年、ショパンはロンドンへ行き、生涯で最後となる演奏会を開きました。
しかしその後、病状が悪化したため、同年パリに戻ります。ショパンの最後の家となったのが、ヴァンドーム広場の12番地にあるアパルトマンです。
1849年8月、再会を望むショパンの求めに応じて、姉Ludwikaがパリにやってきます。
同年10月17日、ルドヴィカ、ポトツカ伯爵夫人、ソランジュに看取られながら、ショパンは39歳の若さで永眠しました。
10月30日にパリのマドレーヌ教会にてショパンの葬儀が行われ、ショパンの生前の希望により、モーツァルトのレクイエムが演奏されました。
葬儀には3000人以上の人が参列しましたが、ジョルジュ・サンドが姿を見せることはありませんでした。
フランス・パリのショパンゆかりの地巡りのベストシーズン
フランスのベストシーズンは1年中と言っても過言ではありません。
どの季節も素晴らしいのですが、広場や公園の散策も楽しむのであれば気候の良い春から秋にかけてがおすすめです。
4月~10月までは営業時間が延びる施設が多く、多くのスポットを観光することができますよ!

フランス・パリのショパンゆかりの地6選
①ショパンの暮らした家
ショパンが住んだ家はパリに9ヶ所ありますが、残念ながら見学のできる場所はありません。
ポワソニエール大通り27番地(27 Boulevard Poissonnière)は、ショパンがパリに来て初めて住んだ場所ですが、現在は入り口の門だけが残っており、ショパンが住んでいたことを示すプレートが掲げられています。


またヴァンドーム広場の12番地(12 Place Vendome)は、ショパンが最後に住んだ場所で、ここで39歳の生涯を閉じました。


現在は高級宝石店ショーメの本店があり、この建物は歴史的建造物に指定されています。
②モンソー公園(Parc de Monceau)


モンソー公園は、パリ8区の閑静な住宅街にある美しい公園です。在仏日本大使館や凱旋門からも近く、地元の人たちの憩いの場所になっています。
モンソー公園には、この公園をこよなく愛したショパンのモニュメントが建っています。
「ピアノを弾くショパンとミューズ(Chopin au piano et sa muse)」は、 Jacques Froment-Meuriceによる巨大な大理石の像です。
また公園内には、ジョルジュ・サンドの元恋人Alfred de Mussetの記念碑やRaoul Verlet によるGuy de Maupassantの像も建っており、散策しながら彫像が楽しめます。
③ポーランド歴史文学協会(La Societe Historique et Litteraire Polonaise)
サン・ルイ島にあるポーランド歴史文学協会は、亡命ポーランド人の活動拠点の1つとなった場所。
ショパンは1833年からの会員です。
館内には、ポーランド図書館、そしてポーランドを代表するロマン派詩人のAdam Mickiewiczとフレデリック・ショパンのゆかりの品を展示した記念館になっています。
ショパン記念館では、ショパンの自筆譜をはじめ、デスマスクや左手の石膏などを見ることができます。
④マドレーヌ寺院(Église de la Madeleine)


52本のコリント様式の柱が四方を囲み、古代ギリシア風の外観をもつマドレーヌ寺院は、1842年に「聖マグダラのマリア」を祀るカトリック教会として完成。
1849年10月30日、結核により若くしてこの世を去ったショパンの葬儀は、マドレーヌ寺院で行われました。


モーツァルトのレクイエムをはじめ、ショパンの前奏曲や葬送行進曲が演奏されました。
パリの楽壇や文壇を代表する人々をはじめ、3000人以上の葬列者が出席しましたが、そこにジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。
⑤ペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)


ペール・ラシェーズ墓地は、ショパンをはじめ、フランスの芸術文化や歴史に貢献した人物が埋葬されているパリ市内最大規模の墓地です。
ショパンが亡くなると、遺言通りに心臓を取り出すため遺体が解剖されました。
ショパンの心臓は、姉ルドヴィカによってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に安置されました。
ショパンの遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、ショパンの一周忌には、サンドの娘ソランジュの夫で彫刻家のクレサンジェが「嘆きの天使」と題した記念碑をショパンの墓に建てました。
⑥ロマン派美術館(Musée de la Vie Romantique)
ロマン派美術館は、1811年から1830年にかけてオランダのロマン主義画家「Ary Scheffer」がアトリエ兼住居として過ごした邸宅です。
シェフェールと親交のあったGeorge Sandはじめ、Eugène Delacroix、Frédéric Chopin、Franz Liszt、Victor Hugoなど、19世紀に活躍した画家や作家・音楽家などがサロンに集まりました。
1983年にロマン派美術館として開館し、ロマン主義の芸術家たちのゆかりの作品や品々が展示されています。
美術館を見学した後は、併設されたサロン・ド・テがオススメです。かつての温室を利用した開放感あふれる空間で、お茶を飲みながらゆっくりと時間を過ごすことができますよ。
フレデリック・ショパンのゆかりの地まとめ
フレデリック・ショパンの友人であったJulian Fontanaは、ショパンの死後、世に公表しなかった作品を廃棄するように言い残したショパンの意に反して、その遺作を集めて出版しました。
フォンタナに対する批判の声も上がりましたが、ショパンの代表作の1つでもある「幻想即興曲」など、消え去るはずの作品を世に出した彼の功績は大きかったのではないでしょうか。
若くして亡くなったショパンを辿る旅、音楽ファンでなくとも楽しめると思います。
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