芸術家・アーティスト

在住者厳選!ラヴェルのゆかりの地6選

《ダフニスとクロエ》や《ボレロ》などの作曲で知られるフランスの作曲家モーリス・ラヴェル。

卓越した管弦楽法で知られ、「オーケストラの魔術師」や「オーケストレーションの天才」という異名をもちます。

ラヴェルは約40年間の活動で比較的少ない作品しか残していませんが、ピアノ曲、歌曲、室内楽曲、オーケストラ曲、バレエ音楽、オペラなどさまざまな分野に貢献した作曲家。

今回は、そんな作曲家モーリス・ラヴェルのゆかりの地をご紹介していきます。

おにちゃん
おにちゃん
学生時代からすごく好きなラヴェルについて取り上げました!まだまだ触れられていない魅力がたくさんありますが、フランスに訪れる際はぜひラヴェルの足跡を辿ってみてくださいね

モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel)とは?

幼少期

1875年3月7日、モーリス・ラヴェルはフランス南西部のバスク地方Ciboureシーブルで、スイス出身の発明家・実業家の父ジョゼフとバスク出身の母マリーのもと誕生。

ラヴェルは生後3ヶ月のときにパリに移住し、1878年に弟Édouardエドゥアールが生まれます。

一家の収入は多くはないものの、ラヴェルは職業の選択に関して困難や危機はなく、周囲から反対されることなく幼い頃から音楽の道に進むことを決めていました。

1882年、7歳の誕生日を迎えた直後にピアノをはじめます。

学生時代

知られる限りのもっとも早い公開演奏は14歳のころ。

1889年6月2日、サル・エラールでおこなわれたコンサートでモシェレス《ピアノ協奏曲 第3番 Op.60》の抜粋を演奏しました。

同年、パリ国立音楽院のピアノ科入学試験でショパンの協奏曲(抜粋)を演奏し、予科に入学。

2年後の1891年には本科のクラスに進み、さらにÉmile Pessardエミール・ペサールの和声のクラスにも登録しました。しかし、在籍中の試験の結果、和声のクラスもピアノのクラスもやめさせられてしまい、1895年にパリ音楽院をやめてしまいます。

ラヴェルの作曲活動はパリ音楽院に在籍していた1893年ごろからおこなわれており、パリ音楽院をやめてから作曲活動が加速。

ラヴェルは親しい友人以外に対しては冷たい雰囲気を漂わせて周りとの距離を置き、身だしなみや服装に気をつかい、洗練された優雅さを身に纏った人だったと言われていますが、このころに書かれたラヴェルの初期作品の多くにはそういった要素が散りばめられているように感じます。

アービー・オレンシュタインによる伝記によると

20代前半のラヴェルは外見はよそよそしく無口だったが、実際はふざけるのが好きで、敏感で、独特のいたずらっぽいユーモアのセンスがあった

といった記述があり、フランス文学についての造詣が深かったとも言われています。

さて、約3年ほど作曲活動に熱心に取り組んでいたラヴェルは、1898年1月28日にパリ音楽院での勉強を再開。

Gabriel Fauréガブリエル・フォーレの作曲のクラスに入りながら、André Gedalgeアンドレ・ジェダルジュから対位法と管弦楽法を学びました。

そしてフォーレのクラスで過ごし始めた1年目、1898年3月5日に2台ピアノ曲《耳で聴く風景 Sites auriculaires》で作曲家としてデビュー。

また、翌年1899年にラヴェルの有名作品の1つとして知られる《亡き王女のためのパヴァーヌ Pavane pour une infante défunte》が作曲されました。

そしてこのあたりからラヴェルによる「ローマ賞※」への挑戦が始まります。

※ローマ賞とは、30歳以下が挑戦できる、年に1度の作曲家のためのコンクール。
過去に、フランスを代表する作曲家Hector Berliozエクトル・ベルリオーズCharles Gounodシャルル・グノーGeorges Bizetジョルジュ・ビゼーClaude Debussyクロード・ドビュッシーなどがローマ賞でグランプリを獲得しています。

しかし、ラヴェルのような若くて前衛的な作曲家と、極度に保守的なThéodore Duboisデオドール・デュボア(新しいパリ音楽院の院長)との間には摩擦があり、ラヴェルによるローマ賞への挑戦はうまくいきません。

追い討ちをかけるように、ラヴェルは1900年のパリ音楽院の試験でデュボアに0点をつけられ賞を取り損ない、作曲のクラスから除籍されてしまいます。

おにちゃん
おにちゃん
これで3回目の除籍…厳しいですね

しかしラヴェルの師であったフォーレはラヴェルを支持しており、除籍後も1901-1903年まで聴講生としてフォーレのクラスに在籍していました。

そして1905年。ラヴェル30歳。ローマ賞に挑戦できる最後の年。

すでにパリの音楽界では若手作曲家として評価され、有名人であったラヴェルが5回目のローマ賞に挑みますが、これがかの有名な「ラヴェル事件」と言われる出来事になります。

なんと驚くべきことに、ラヴェルは予選で落選してしまったのです。

これが大スキャンダルとなり、音楽評論家のあいだで批判や抗議が相次ぐだけでなく、日刊紙の一面になるほどの出来事になりました。

そしてパリ音楽院院長だったデュボアは辞任に追い込まれます。

ラヴェルは生涯でローマ賞に5回挑戦しており、一度のみ3位に入賞することができましたが、グランプリには手が届くことはありませんでした。

mari
mari
皮肉なことにより、この事件はラヴェルの知名度をさらに広めることになりました。

このころ、ピアノ曲《ソナチネ》《鏡》《高雅で感傷的なワルツ》《夜のガスパール》、連弾《マ・メール・ロワ》、管弦楽曲《スペイン狂詩曲》、バレエ音楽《ダフニスとクロエ》、オペラ《スペインの時》など多くの著名な曲が作曲されます。

《ソナチネ》より第1楽章

《鏡》より「洋上の小舟」

《マ・メール・ロワ》より「眠りの森の美女のパヴァーヌ」

戦争

1914年39歳のラヴェルは、第一次世界大戦が始まると自ら志願して軍用トラック運転手として従軍。

そして戦争で倒れた仲間たちの思い出にピアノ曲《クープランの墓》を捧げました。

悲惨な戦争体験や自身の健康状態の悪化。

そして1916年の母の死に直面します。

ラヴェルにとって母の存在は大きく、実質3年ものあいだ新作が生まれませんでした。

戦後はパリを離れモンフォール・ラモリで静かに暮らしますが、戦後の混乱が収まると、ラヴェルの生活はモンフォール・ラモリ、パリ、バスク地方、演奏旅行を行き来する生活になります。

晩年

1928年のアメリカでの演奏旅行はラヴェルに大きな刺激を与え、ラヴェルの世界的な名声は頂点に。

1928年に作曲したバレエ曲《ボレロ Boléro》は、ラヴェルの愛したスペインの国境に近いサン・ジャン・ド・リュズで着想を得、モンフォール・ラモリで取りかかっった作品。

管弦楽法に精通していたラヴェルは、楽器を上手く組み合わせて多彩な響きを生み出し、《ボレロ》は作曲者自身を驚かせるほどに人気を集めました。

しかし1932年、ラヴェルはパリでタクシーの衝突事故に巻き込まれます。状態は深刻なものではなくすぐに元気になったと思われていましたが、1933年の夏に健康が悪化。

運動失調症と記憶喪失を伴う失語症が確認されましたが、休養をとると回復し同年11月には再び舞台へ。しかしこれが最後の公開演奏になりました。

その後もひどい健康状態の中、ラヴェルは作曲活動を続けようと試みますが、心の中にあるアイデアを書きとめようとすると記憶から消えてしまったりと、ラヴェルの苦悩は続きます。

自らの手でスコアを書くことができなくなってからも、自身の曲を演奏する後進に指導をしたり、コンサートにでかけるなど、最後の年まで音楽に尽くしたラヴェル。

病状が徐々に悪化し、1937年12月28日に62歳という若さでこの世を去りました。

ラヴェルの遺体は、パリ郊外のLevallois Perretルヴァロワ・ペレ墓地に埋葬されています。

モーリス・ラヴェルゆかりの地巡りのベストシーズン

どの季節も素晴らしいのですが、お墓参りやパリの街を散策するなら気候の良い春から秋にかけてがおすすめです。

4月~10月までは営業時間が延びる施設が多く、多くのスポットを観光することができますよ!

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モーリス・ラヴェルゆかりの地

①パリでラヴェル一家が住んでいた場所

シーブルから移住してきたラヴェル一家は、パリ市内で頻繁な引っ越しを繰り返します。

おそらくプレートなども掲げられていませんが、1875年パリ到着後に初めて住んだのはパリ9区のマルティール通り(Rue des Martyrs)40番地。

1888年にはピガール通り73番地

1896年にはラグランジュ通り15番地

1899年にはフロマンタン通り7番地

1901年4月にはドゥエ通り40番地の2

1901年9月にはぺレール大通り19番地

1905年に郊外のルヴァロワ・ペレ(シュヴァリエ通り、現ルイ・ルキエ通り16番地の2)に引っ越しました。

②《ダフニスとクロエ》を作曲したパリのアパルトマン

凱旋門の近く、パリ17区のカルノー大通り(Avenue Carnotアヴニュ・カルノー)4番地には、1908-17年にかけてラヴェルが住んでいたアパルトマンがあります。

このアパルトマンは1908年10月13日にラヴェルの父ジョゼフが亡くなった後、ラヴェルの母・本人・弟が暮らした家。

また《ダフニスとクロエ》が作曲された家としてよく知られている場所です。

日本式でいうところの1階にはカフェがあり、カフェのテントの上に位置する場所にプレートが掲げられています。

③旧・デュラン社のオフィス

パリ8区のマドレーヌ広場(Place de la Madeleineプラス ドゥ ラ マドレーヌ)4番地には、かつてラヴェルがよく訪ねたと言われているフランスを代表する楽譜出版社のデュラン社(Durand & Cie)のオフィスが存在しました。

かつて、ここにはラヴェルの大量の自筆譜が保管されていたとのこと。

現在そのオフィスを拝むことはできませんが、ラヴェルがここによく通っていたと思うと感慨深いものがありますね。

おにちゃん
おにちゃん
ラヴェルを弾くときはデュラン版を買うことも多いので、こういうエピソードを知るとニヤニヤしちゃいますね

④モーリス・ラヴェル博物館(Musée Maurice Ravel)

ℍenry Salomé, CC BY-SA 3.0 <>, via Wikimedia Commons

ラヴェルは、パリから西へ45㎞離れた中世の面影を残す街モンフォール・ラモーリーで晩年を過ごしました。

1921年から1937年までの16年間を過ごした家は当時のまま保存され、現在はモーリス・ラヴェル博物館として一般公開されています。

ラヴェルの有名曲《ボレロ》もこの地で作られました。

ラヴェルの死後、弟エドゥアールはラヴェルの家とそのコレクションをフランス国立美術館連合に遺贈。

そして1997年、国立博物館「モーリス・ラヴェル博物館」として生まれ変わりました。

家具の収集家でもあったラヴェルは、こだわりのインテリアを揃え、また東洋美術にも興味をもっていたことが見て取れる浮世絵のコレクションをはじめ、置きもの、人形、おもちゃなどが飾られ、独自の雰囲気に包まれています。

おにちゃん
おにちゃん
外観は地味な印象ですが、部屋の中はセンスで溢れています!ラヴェルの小柄な体格(身長161cm)を感じられるような、小さめのサイズのおうちでした

⑤ヴァロワ・ペレ墓地(Cimetière Levallois Perret)

パリの西郊外にあるルヴァロワ・ペレ市は、パリ市内からのアクセスも便利な街です。

ラヴェルのお墓は正門からすぐ、中央の道から右寄りの場所です。

その他の著名人としてエッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェルも埋葬されています。

ルヴァロワ・ペレ墓地に到着したら、まず管理事務所で地図をもらい、ラヴェルのお墓のある場所を確認してから行くことをおすすめします。

⑥ラヴェルの生家(La Maison Ravel)

スペインとの国境に近いバスク地方のリゾート地「Saint-Jean-de-Luzサン・ジャン・ド・リュズ」は、ラヴェルが愛した街です。

シーブルはサン・ジャン・ド・リュズに隣接した街で、ラヴェルの生まれ故郷。

海岸沿いのモーリス・ラヴェル通り(Quai Maurice Ravel)12番地には、17世紀に建てられたオランダ様式のラヴェルの生家が今も残っています。

ラヴェル一家は、ラヴェルが生後3ヶ月のときにパリへ移住しました。

ラヴェルはパリで育ちましたが、シーブルとサン・ジャン・ド・リュズをこよなく愛し、作曲家となってからも何度も訪れ、滞在しています。

また、ラヴェルはバスク出身の母を通じてスペイン音楽に共感を持ち、のちに管弦楽曲《スペイン狂詩曲》、オペラ《スペインの時》、ピアノ曲《鏡》より「道化師の朝の歌」、歌曲《ハバネラ形式のヴォカリーズ》などさまざまなスペイン色のある曲を書きました。

現在、建物の中を見学することはできませんが、ラヴェルが住んでいたことを示すプレートが掲げられています。

《スペイン狂詩曲》より「マラゲーニャ」

《鏡》より「道化師の朝の歌」

ラヴェルゆかりの地まとめ

ラヴェルは古典音楽へのリスペクトはもちろん、音楽に対して極めて開放的な感性をもつ作曲家でした。

1916年戦争中、ラヴェルはドイツとオーストリアの作曲家のあらゆる作品の演奏を禁止することを提案された同盟(サン・サーンスをはじめとするおよそ80名のフランス音楽家が署名)に賛同しなかったというエピソードがあります。

わたしは「重要な作曲家が良い影響を与えることは、国籍とは関係ない」と主張するラヴェルの声明を読み、ラヴェルが音楽を大切に思う強い気持ちと勇気を感じました。

ラヴェルは残念ながらフランス作曲家における登龍門ともいえるローマ賞を手にすることはできなかったものの、ピアノ曲、室内楽、管弦楽曲、バレエ曲、歌曲、オペラなど幅広いジャンルで作品を残し、フランスの近代音楽史に大きな足跡を残しました。

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