ロマン派を代表する作曲家と聞いて、まず連想するのがフレデリック・ショパンではないでしょうか。
ショパンはポーランド生まれの作曲家ではありますが、祖国からの亡命をきっかけに21歳から生涯を終える(39歳)まで多くの時間をパリで過ごした音楽家です。
ショパンと同世代の音楽家には、作曲家でありながらピアノの名手としても知られる人物がほかに2名おり、それはフランツ・リストとロベルト・シューマン。(シューマンは指を痛めてしまったためピアニストとして成功できませんでしたが)
ショパンとリストは対極な演奏スタイルでありながら、パリで同じ時間をすごした音楽仲間でもありました。
繊細で美しい旋律を奏でるショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれ、多くの人々を魅了しました。
当ブログ「フランスボックス」では、そんな偉大な功績を残したピアニスト、フレデリック・ショパンのフランス・パリでゆかりの地をご紹介していきます。
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このページの目次
- フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin)とは?
- フランス・パリのショパンゆかりの地巡りのベストシーズン
- フランス・パリのショパンゆかりの地6選
- フレデリック・ショパンゆかりの地まとめ
フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin)とは?
フレデリックショパン(Frédéric Chopin) | |
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出没年 | 1810年3月1日※-1849年10月17日 39歳で肺結核により死去 |
様式・流派 | ロマン派 |
出身 | ポーランド(ワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラ) |
代表作 | 《ポロネーズ第6番「英雄」Op.53》 《エチュード第3番 Op.10-3》(別れの曲) 《エチュード第12番「革命」Op.10-12》 |
影響を受けた人物 | フンメル、J.S.バッハ、ジョン・フィールド |
親交のあった人物 | ヒラー、リスト、メンデルスゾーン、フランコム、ベルリオーズ、ドラクロワ |
※ショパンの出生年月日に関しては諸説あり
幼少期
ショパンは1810年にポーランドのŻelazowa Wolaで誕生。
ショパンが7ヶ月のとき、父親の仕事の都合でワルシャワに移ります。
フランス人の父Nicholas Chopinはヴァイオリンとフルートを演奏し、ポーランド人の母Justyna Krzyżanowskaはピアノを弾く音楽一家だったため、ショパンは幼い頃から音楽に親しんでいました。
ショパンが6歳のとき、音楽家で音楽教師のWojciech Żywnyにピアノを師事。
作曲活動
1817年、ショパンが7歳のときに《ポロネーズ第11番 KK.IIa》と《ポロネーズ第12番 KK.IVa》を初めて作曲。
1818年にはラジヴィウ宮殿で開かれた演奏会にワルシャワの著名な音楽家たちとともに参加し、Adalbert Gyrowetzのピアノ協奏曲第5番ホ短調を演奏しました。
さらに1821年には、65歳を迎えた恩師ジヴヌィの誕生日を祝い《ポロネーズ第13番 KK.IVa》を作曲。
1823年、ショパンはワルシャワ高等学校に入学します。
1826年、16歳のショパンは高等学校の最終学年に進むことを諦め、作曲家で音楽教育家Józef Elsnerの指導の下、ワルシャワ音楽院で学ぶ。1829年に首席で卒業。
1830年、ショパンがウィーンへ旅行中、母国ポーランドでロシア帝国の支配に対する武装蜂起「11月蜂起」が勃発。
母国へ戻ることを諦めたショパンは、1831年9月にパリに移住します。
パリでは、Hector Berliozをはじめ、Franz Liszt、Felix Mendelssohn、画家Eugène Delacroix、Delfina Potocka伯爵夫人などの多くの芸術家や著名人と出会い、交流を深め、音楽家としての名声をあげていきます。
1832年、ショパンはラジヴィウ公爵に伴われて、ロスチャイルド男爵のサロンを訪れます。
男爵夫人はショパンの音楽才能に魅せられ、娘のシャルロットのピアノ指導を依頼。
それにより貴族や資産家などがショパンにピアノ指導を求め、経済的に余裕ができます。
ショパンは公開演奏会を行うことはほとんどなく、主に貴族や芸術家、文学者などが集まるサロンで演奏を行いました。
1835年、ショパンはボヘミアの温泉保養地「カルロヴィ・ヴァリ」で両親と再会。
ここで3週間両親と過ごした後、寄宿舎学校時代以来の友人であるFeliks Wodzińskiを訪ねます。
そしてフェリックスの妹Mariaに出会い、美しく成長したマリアに恋心を抱きます。
1836年、ショパンはマリアにプロポーズし、マリアはそれを受け入れます。
ヴォジンスキ家は、ショパンの健康状態への懸念から婚約を破棄。
ショパンは幼い頃から病弱で、絶えず肺疾患と闘っていました。
ショパンは、リストの愛人でパリ社交界の花形だったマリー・ダグー伯爵夫人からGeorge Sandを紹介されます。
このときサンドは、天才音楽家ショパンに好意を持ちましたが、ショパンのサンドの印象はあまり良いものではありませんでした。
マリアと破局を迎え、精神的なショックを受けていたショパンは、1838年にサンドと再会。サンドから熱烈なアプローチを受け、間もなく2人の交際が始まりました。
サンドには、体の弱い息子モーリスがいました。
医者に暖かい地方での療養をすすめられ、サンドは2人の子供を連れて地中海に浮ぶスペイン領のマヨルカ島へ。
その頃、ショパンも長い間患っていた結核の症状が悪化し、病気療養を理由に一緒に滞在します。
しかし冬の悪天候で、ショパンの健康に深刻な影響を及ぼしたため、1839年にマルセイユを経由してサンドの別荘があるノアンへ移ります。
この頃ショパンとサンドとの関係に亀裂が入り始めます。その原因となったのが、サンドの息子モーリスと娘ソランジュでした。
体の弱いモーリスを何かとかばう母サンド。
それに反発するソランジュは、モーリスと喧嘩するとショパンに泣きつき、ショパンが彼女をかばったため、サンドとショパンの関係がぎくしゃくし始めます。
ショパンとサンドの関係に致命的な亀裂を入れたのが、ソランジュと結婚した彫刻家Auguste Clésingerが起こしたノアンでの乱闘事件。
サンドにノアンの館から追い出されたソランジュとクレサンジェは、ショパンに助けを求めました。
ショパンが2人をかばったことにより、9年間続いたショパンとサンドの関係は破局を迎えました。
晩年
1848年、ショパンはロンドンへ行き、生涯で最後となる演奏会を開きました。
しかしその後、病状が悪化したため、同年パリに戻ります。ショパンの最後の家となったのが、ヴァンドーム広場の12番地にあるアパルトマンです。
1849年8月、再会を望むショパンの求めに応じて、姉Ludwikaがパリにやってきます。
同年10月17日、ルドヴィカ、ポトツカ伯爵夫人、ソランジュに看取られながら、ショパンは39歳の若さで永眠しました。
10月30日にパリのマドレーヌ寺院でショパンの葬儀が行われ、ショパンの生前の希望により、モーツァルトのレクイエムが演奏されました。
葬儀には3000人以上の人が参列しましたが、ジョルジュ・サンドが姿を見せることはありませんでした。
フランス・パリのショパンゆかりの地巡りのベストシーズン
フランスのベストシーズンは1年中と言っても過言ではありません。
どの季節も素晴らしいのですが、広場や公園の散策も楽しむのであれば気候の良い春から秋にかけてがおすすめです。
4月~10月までは営業時間が延びる施設が多く、多くのスポットを観光することができますよ!
フランス・パリのショパンゆかりの地6選
①パリでショパンが暮らした家
ショパンが住んだ家はパリに9ヶ所ありますが、残念ながら見学のできる場所はありません。
1831年 | ポワソニエール大通り27番地 |
1832年 | シテ・ベルジェール4番地 |
1833年 | ショセ・ダンタン通り5番地 |
1836年 | ショセ・ダンタン通り38番地 |
1839年 | トロンシェ通り5番地 |
1841年 | ピガール通り16番地 |
1842年 | スクワール・ドルレアン9番地 (現テブー通り80番地) |
1849年 | シャイヨ通り74番地 |
1849年 | ヴァンドーム広場12番地 |
はじめて住んだ場所
ポワソニエール大通り27番地(27 Boulevard Poissonnière)は、1831年ショパンがパリに来て初めて住んだ場所ですが、現在は入り口の門だけが残っており、ショパンが住んでいたことを示すプレートが掲げられています。
ショパンが借りていたのは5階の部屋。
ショパンが初めて住んだ場所 | |
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住所 | 27 Boulevard Poissonnière, 75002 Paris 地図 |
最寄り | メトロ8,9号線Richelieu – Drouot駅 メトロ3号線Bourse駅 |
※プレートのみ
アレクサンデル・ホフマン、ヤン・マトゥシンスキと暮らした場所
ショセ・ダンタン通り5番地。
1833年、これまでよりはるかに家賃の高い高級アパルトマンにポーランド人のホフマンとの共同生活を始めます。
のちにホフマンは仕事の都合でパリを離れ、1834年の春からは友人のヤン・マトゥシンスキと暮らすことに。共同生活はヤンが結婚するまで続きます。
ジョルジュ・サンドと出会ったころに暮らしていた場所
1836年、ショパンとサンドが出会ったころ、ショパンが暮らしていたのはショセ・ダンタン38番地。
ショパンが新居で開いたパーティにはサンドも招かれたとのこと。
サンドとの関係が進展するのはさらに1年後のことです。
ジョルジュ・サンドと暮らした場所
1839年、ショパンとサンドは世間的なことを考えて別々に住んでいましたが、ショパンはサンドの暮らしていた家に毎日通っていたといわれています。
しかし、1841年にサンドの提案でショパンはサンドのところ(ピガール通り16番地)へ引っ越しますが、ふたりが暮らすには少々手狭だったため1842年には引っ越します。
ショパンとサンドが暮らした家はピガール通り16番地(現ジャン=バティスト・ピガール通り20番地)。
ショパンとサンドが暮らした場所 | |
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住所 | 20 Rue Jean-Baptiste Pigalle, 75009 Paris 地図 |
最寄り | メトロ12号線Saint-Georges駅 |
※プレートのみ
もっとも長く住んだ場所
1842年、ショパンがサンドと暮らすための新しい住居として選んだのはスクワール・ドルレアンの5番地(サンド)と9番地(ショパン)。
四方を建物に囲まれ、中央に噴水のある緑の中庭のような心地よい空間のこの場所には多くの文化人が集まり、「小アテネ」と呼ばれており、ショパンも気に入っていた家です。
ここの住人には
- ピアニスト・作曲家
カルクブレンナー - ピアニスト・教育者
ピエール・ジョゼフ・ジンメルマン - 作曲家
シャルル・ヴァラタン・アルカン - 歌手
ポリーヌ・ヴィアルド - 作家
アレクサンドル・デュマ - 彫刻家
ジャン・ピエール・ダンタン - バレリーナ
マリー・タイオーニ
などが住んでいました。
友人たちが探してくれたシャイヨの丘の家
1849年6月。体が衰弱し、普通の生活が困難だったショパンに、友人たちが探してくれた家は現在トロカデロ広場のある場所にあった、シャイヨの丘の小さな二階建ての家。
現在はエッフェル塔で賑わっている場所ですが、当時はエッフェル塔はなく、庭園や牧場に囲まれた緑の丘。
衰弱状態が続いていたにもかかわらず、馬車でブーローニュの森に出かけたり、家に友人を招いたりしていました。
最期に住んだ場所
1849年8月30日、衰弱状態が続いていたショパンはヴァンドーム広場の12番地(12 Place Vendome)に移り住みます。
ショパンはここで39歳の生涯を閉じました。
現在は高級宝石店ショーメの本店があり、この建物は歴史的建造物に指定されています。
ショパンが最後に住んだ場所 | |
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住所 | 12 Place Vendôme, 75001 Paris 地図 |
最寄り | メトロ1号線Tuileries駅 |
※プレートのみ
②ロマン派美術館(Musée de la Vie Romantique)
ロマン派美術館は、1811年から1830年にかけてオランダのロマン主義画家Ary Schefferがアトリエ兼住居として過ごした邸宅です。
シェフェールと親交のあったGeorge Sandはじめ、Eugène Delacroix、Frédéric Chopin、Franz Liszt、Victor Hugoなど、19世紀に活躍した画家や作家・音楽家などがサロンに集まりました。
1983年にロマン派美術館として開館し、ロマン主義の芸術家たちのゆかりの作品や品々が展示されています。
美術館を見学した後は、併設されたサロン・ド・テがおすすめです。
かつての温室を利用した開放感あふれる空間で、お茶を飲みながらゆっくりと時間を過ごすことができますよ!
ロマン派美術館 | |
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住所 | 16 Rue Chaptal, 75009 Paris 地図 |
最寄り | メトロ2号線Blanche駅 |
時間 | 10:00-18:00 |
定休 | 月曜日 1月1日、5月1日、12月25日 |
料金 | 常設展無料 |
HP | https://museevieromantique.paris.fr/fr |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
③モンソー公園(Parc de Monceau)
モンソー公園は、パリ8区の閑静な住宅街にある美しい公園です。在仏日本大使館や凱旋門からも近く、地元の人たちの憩いの場所になっています。
モンソー公園には、この公園をこよなく愛したショパンのモニュメントが建っています。
《ピアノを弾くショパンとミューズ Chopin au piano et sa muse》は、 Jacques Froment-Meuriceによる巨大な大理石の像です。
また公園内には、ジョルジュ・サンドの元恋人Alfred de Mussetの記念碑やRaoul Verlet によるGuy de Maupassantの像も建っており、散策しながら彫像が楽しめます。
モンソー公園 | |
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住所 | 35 Boulevard de Courcelles, 75008 Paris 地図 |
最寄り | メトロ2号線Monceau駅 |
時間 | 7:00-22:00(冬季は20:00) |
定休 | – |
料金 | – |
HP | https://www.paris.fr/equipements/parc-monceau-1804 |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
④ポーランド歴史文学協会(La Societe Historique et Litteraire Polonaise)
サン・ルイ島にあるポーランド歴史文学協会は、亡命ポーランド人の活動拠点の1つとなった場所。
ショパンは1833年からの会員です。
館内には、ポーランド図書館、そしてポーランドを代表するロマン派詩人のAdam Mickiewiczとショパンのゆかりの品を展示した記念館になっています。
ショパン記念館では、ショパンの自筆譜をはじめ、デスマスクや左手の石膏などを見ることができます。
ポーランド歴史文学協会 | |
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住所 | 6 Quai d’Orléans, 75004 Paris 地図 |
最寄り | メトロ7号線Pont Marie駅 |
時間 | 博物館 14:15-18:00(火・木) ※要予約 |
定休 | – |
料金 | 博物館7ユーロ 18歳未満無料 |
HP | http://www.bibliotheque-polonaise-paris-shlp.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
⑤マドレーヌ寺院(Église de la Madeleine)
52本のコリント様式の柱が四方を囲み、古代ギリシア風の外観をもつマドレーヌ寺院は、1842年に「聖マグダラのマリア」を祀るカトリック教会として完成。
1849年10月30日、結核により若くしてこの世を去ったショパンの葬儀は、マドレーヌ寺院で行われました。
モーツァルトのレクイエムをはじめ、ショパンの前奏曲や葬送行進曲が演奏されました。
パリの楽壇や文壇を代表する人々をはじめ、3000人以上の葬列者が出席しましたが、そこにジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。
詳しい情報に関しては「マドレーヌ寺院の行き方・営業時間・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
マドレーヌ寺院 | |
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住所 | Place de la Madeleine, 75008 Paris 地図 |
最寄り | メトロ8,12,14号線Madeleine駅 |
時間 | 9:30-19:00 |
定休 | – |
料金 | – |
HP | http://www.eglise-lamadeleine.com/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
⑤ペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)
ペール・ラシェーズ墓地は、ショパンをはじめ、フランスの芸術文化や歴史に貢献した人物が埋葬されているパリ市内最大規模の墓地です。
ショパンが亡くなると、遺言通りに心臓を取り出すため遺体が解剖されました。
ショパンの心臓は、姉ルドヴィカによってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に安置されました。
ショパンの遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、ショパンの一周忌には、サンドの娘ソランジュの夫で彫刻家のクレサンジェが「嘆きの天使」と題した記念碑をショパンの墓に建てました。
- フランスを代表するシャンソン歌手
エディット・ピアフ - イタリア出身の俳優・シャンソン歌手
イヴ・モンタン - アイルランド出身の作家・劇作家・詩人
オスカー・ワイルド - イソップ寓話で有名なフランスの詩人
ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ - フランスのロマン主義を代表する画家
ウジェーヌ・ドラクロワ - フランスの文豪
オノレ・ド・バルザック - 長編小説「失われた時を求めて」
マルセル・プルースト - オペラの女王・ソプラノ歌手
マリア・カラス - エコール・ド・パリを代表する画家
アメデオ・モディリアーニ - ロマン派を代表する作曲家
フレデリック・ショパン - 印象派の画家
カミーユ・ピサロ - 画家・絵画収集家
ギュスターヴ・カイユボット - オペラ《カルメン》の作曲家
ジョルジュ・ビゼー - フランス6人組・作曲家
フランシス・プーランク - オペラ《セビリアの理髪師》の作曲家
ジョアキーノ・ロッシーニ - バルビゾン派の画家
カミーユ・コロー - 画家
ジョルジュ・スーラ - 新古典主義の巨匠
ドミニク・アングル - 新古典主義の画家
ジャック=ルイ・ダヴィッド - 女性前衛画家
マリー・ローランサン
詳しい情報に関しては「ペールラシェーズ墓地の行き方・営業時間・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
ペール・ラシェーズ墓地 | |
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住所 | 16 Rue du Repos, 75020 Paris 地図 |
最寄り | メトロ2号線Philippe Auguste 駅 |
時間 | [11月-3月中旬] 8:00-17:30(月~金) 8:30-17:30(土) 9:00-17:30(日・祝) [3月中旬-10月] 8:00-18:00(月~金) 8:30-18:00(土) 9:00-18:00(日・祝) |
定休 | ー |
料金 | ー |
HP | https://pere-lachaise.com/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
フレデリック・ショパンゆかりの地まとめ
フレデリック・ショパンの友人であったJulian Fontanaは、ショパンの死後、世に公表しなかった作品を廃棄するように言い残したショパンの意に反して、その遺作を集めて出版しました。
フォンタナに対する批判の声も上がりましたが、ショパンの代表作の1つでもある《幻想即興曲》など、消え去るはずの作品を世に出した彼の功績は大きかったのではないでしょうか。
クラシック音楽ファンのみならず、世界中の人々に愛されるショパンは、子供の頃から卓越した才能をもち、若くしてその才能を開花させ、パリで活躍した音楽家。
若くして亡くなったショパンを辿る旅、音楽ファンでなくとも楽しめると思います。
パリのホテル選びは本当に難しく、日本と違って価格と質が一致しないことも多いため、あらかじめ、情報をインプットしておくのがおすすめです!
当ブログ「フランスボックス」ではパリ在住者が教えるホテルの選び方と安全でコスパの良いおすすめエリアでホテルに関する注意点や知っておきたい情報をまとめました。
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予算はどれくらいかかっても一流ホテルに泊まりたいという方は、パレスホテルの代表、オテルリッツをおすすめします。
ココシャネルやダイアナ妃にも愛されたパリに行くすべての人達が憧れる、フランス最高峰のホテルで、サービス、食事、設備どれをとっても申し分なく、私にとって人生最高の滞在でした。
かなり高額な宿泊代とはなりましたが、一生の思い出に1泊だけ泊まることができ悔いありません。
ヴァンドーム広場が目の前で、オペラ座までも500mと観光するにも抜群の立地。
絶対に忘れられない滞在になること間違いなしなので1泊だけでもぜひ検討してみてください!