日本の漫画『ベルサイユのばら』で人気を博したフランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793)。
フランスの一王妃に過ぎませんが、彼女の名前を知らない人はいないというぐらい有名ですね。
マリー・アントワネットはわずか14歳で、オーストリアから敵対するフランスに嫁いできました。
国の経済を傾かせるほどの浪費ぶりから「赤字夫人」とも呼ばれ、フランス革命で断頭台の露と消えていった悲劇の王妃です。
わずか37歳という短い生涯を閉じたマリー・アントワネット。
当ブログ「フランスボックス」では、時代を超えて世界中の人々を魅了するマリー・アントワネットゆかりの地をご紹介します。
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このページの目次
マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)とは?
幼少期
フランス国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette Josèphe Jeanne de Habsbourg Lorraine)は、1755年11月2日に神聖ローマ皇帝フランツ1世(Franz I)とオーストリア女大公Maria Teresiaの11人目の娘としてウィーンで生まれました。
当時オーストリアは、プロセインの脅威からフランスとの同盟関係を深めるため、女帝マリア・テレジアは自分の娘をフランス国王ルイ15世の孫Louis Auguste(のちのルイ16世)との政略結婚を考えていました。
その候補にあがっていたのが、マリー・アントワネットの3歳年上のマリア・カロリーナでしたが、ナポリ王と婚約していたマリア・ヨーゼファが結婚直前に急死したため、急遽マリア・カロリーナがナポリ王フェルディナンド4世へ嫁ぐことになりました。
そのため、マリー・アントワネットがフランスとの政略結婚の候補に繰り上がります。
しかしルイ・オーギュストの両親である王太子ルイ・フェルディナンとその妃がこの結婚に反対したため、政略結婚はなかなか進みませんでした。
1765年に王太子ルイ・フェルディナンが死去すると、ようやくルイ15世から女帝マリア・テレジアへ婚約文書が送られました。
このときマリー・アントワネットは、まだフランス語を習得していなかったため、オルレアン司教のヴェルモン神父がその教育にあたりました。
フランス王家へ
1770年5月16日、マリー・アントワネットと王太子ルイ・オーギュストの挙式がヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂にて執り行われました。
このときマリー・アントワネットは14歳、王太子ルイ・オーギュスト15歳でした。
結婚後、マリー・アントワネットは、ルイ15世の寵妃デュ・バリー夫人(Madame du Barry)と対立します。
当時のしきたりでは、デュ・バリー夫人から王妃に声をかけることは禁止されていたため、宮廷内ではいつマリー・アントワネットがデュ・バリー夫人に話しかけるのか話題で持ちきりでした。
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けました。
そして1772年1月1日、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、マリー・アントワネットはあらかじめ用意された言葉をかけることで表向きは終結しました。
1774年、ルイ15世が天然痘で逝去すると、ルイ16世が即位し、マリー・アントワネットはフランス王妃となりました。
そしてこれまでの伝統的なヴェルサイユの習慣や儀式を緩和したり廃止したりしましたが、特権を奪われた人々からは反感を買いました。
同年、ルイ16世はヴェルサイユ宮殿の庭園にある離宮「プチ・トリアノン宮殿(Le Petit Trianon)」をマリー・アントワネットに私的な所有物として贈りました。
この小宮殿は、もともとルイ15世が寵妃「ポンパドール夫人(Madame de Pompadour)」のために建てた城館でした。
マリー・アントワネットは、プチ・トリアノン宮殿を自分好みに改装し、離宮内に「愛の殿堂(Le Temple de l’Amour)」や「王妃の村里(Le Hameau de la Reine)」などを作らせました。ヴェルサイユ宮殿での息苦しい生活に疲れたマリー・アントワネットにとって、プチ・トリアノン宮殿は安らぎの場所でした。
1778年、なかなか子供に恵まれなかったマリー・アントワネットとルイ16世に待望の女の子Marie Thérèse Charlotteが誕生。
結婚生活7年目にしてようやく授かった子供でした。
若くしてフランスに嫁いだマリー・アントワネットは、ドレスや宝石に莫大な額のお金を注ぎ込み、ヴェルサイユ宮殿を抜け出してはパリのオペラ座の仮面舞踏会や賭博にふけるようになっていきます。
そんな娘を案じて、母マリア・テレジアはたびたび手紙を送って戒めています。
子供が生まれたことをきっかけに夜遊びは減り、賭博もやめましたが、時はすでに遅く、飢えと貧困にあえぐ国民の不満は、次第にフランス国王と王妃へ向かっていきました。
首飾り事件
1785年、マリー・アントワネットの名を騙った「首飾り事件」が起こります。
ヴァロワの血を引くと称するラ・モット・ヴァロア伯爵夫人(Comtesse de la Motte-Valois)は、王妃から不興を買っていたロアン枢機卿を利用し、出世のために王妃に取り入ろうと画策していたロアン枢機卿に王室御用達の宝石商ベーマーから160万リーブルの首飾りを受け取らせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙しとりました。
この事件は、軽薄で浪費家というマリー・アントワネットのイメージを定着させ、王室に大きな打撃を与えます。
フランス革命
1789年7月14日、王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発。
国王一家は、ヴェルサイユ宮殿からパリのチュイルリー宮殿に身柄を移されます。
マリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは国外に亡命し、王妹エリザベート(Élisabeth Philippine Marie Hélène de France)とランバル公妃(Princesse de Lamballe)だけが残りました。
1791年6月20日、国王一家は庶民に化けてパリを脱出。
脱出計画の中心となって動いたのが、マリー・アントワネットの寵臣でスウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵(Hans Axel von Fersen)でした。
フェルセン伯爵は疑惑をそらすため、ルイ16世とマリー・アントワネットは別々に行動することをすすめましたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる8頭立ての大型馬車「ベルリン馬車」を用意させました。
ベルリン馬車はもともと足が遅い上、大量の荷物を馬車に積み込んだため、進行速度をさらに遅らせ、逃亡計画を大いに狂わせました。
結局、東部に位置する国境近くのVarennesで身元が発覚し、6月25日に国王一家はパリへ連れ戻されました。
このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されます。
1792年8月10日、パリ市民と義勇兵はチュイルリー宮殿を襲撃し、国王一家はタンプル塔(Tour du Temple)に幽閉。
タンプル塔では、質素な部屋に厳しい監視がつけられていましたが、国王一家は外界の出来事を詳しく知ることができました。
また従者や侍女をつけることも許され、食事も10皿以上と特別待遇を受けていました。
1793年1月21日、革命裁判により死刑判決を受けた国王ルイ16世は、ギロチンに処されます。
7月3日、マリー・アントワネットは、息子で王位継承者のルイ17世と引き離され、8月2日に囚人台280号としてコンシェルジュリーに移送されました。
マリー・アントワネットは革命裁判で提示された罪状について無実を主張すると、裁判所はルイ17世の非公開尋問を行い、親近相姦の事実があったという書類に強制的に署名させました。
近親相姦で告発されたマリー・アントワネットは、裁判の傍聴席にいたすべての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼びました。
しかし判決を覆すことはできず、10月15日にマリー・アントワネットは革命裁判で死刑判決を受けます。
そして10月16日、マリー・アントワネットはコンコルド広場でギロチンに処され、37歳の若さでフランス革命の露と消えました。
マリー・アントワネットの遺体は、ルイ16世の遺体と同じ集団墓地、マドレーヌ墓地に葬られましたが、王政復古の後、ルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺体を探させます。
発見された2人のわずかな遺骸は、1815年に歴代のフランス王が眠るサン・ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)に埋葬されました。
マリー・アントワネットゆかりの地巡りのベストシーズン
フランスのベストシーズンは1年中と言っても過言ではありません。
どの季節も素晴らしいのですが、郊外のお城や宮殿もめぐるのであれば気候の良い春から秋にかけてがおすすめです。
4月~10月までは営業時間が延びる施設が多く、多くのスポットを観光することができますよ!
マリー・アントワネットゆかりの地
これからご紹介していく10の場所。マリーアントワネットがフランスに嫁ぎ、亡くなって埋葬されるまで時系列に並べました。
言わずもがな、ヴェルサイユ宮殿はマスト。比較的アクセスの良いコンシェルジュリーにもぜひ足を運んでいただきたいです。
埋葬先のサン・ドニもパリ中心部からそれほど離れていません。
コンピエーニュ城(Château de Compiègne)
パリの北方約80kmに位置するコンピエーニュ城は、オーストリア皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)と未来の夫となる王太子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)が初めて対面した場所です。
この時マリア・アントーニアは14歳、ルイ・オーギュストは15歳でした。
コンピエーニュ城は、ルイ15世によって優美な城館へと改装されましたが、完成したのはルイ16世の治世で、フランス革命勃発により、城にあった調度品はすべて競売にかけられてしまいます。
その後、ナポレオン1世によりコンピエーニュ城は大規模な改装がされました。ナポレオン3世はこの城をとりわけ愛し、華やかな宮殿として栄華を極めます。
第一帝政期と第二帝政期のそれぞれの部屋には、家具や調度品などが展示されています。
また乗り物博物館も併設されており、馬車や自動車などの乗り物を集めたコレクションを見ることができます。
コンピエーニュ城 | |
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住所 | Place du Général de Gaulle, 60200 Compiègne 地図 |
最寄り | Gare de Compiègne駅 |
時間 | 10:00-18:00 |
定休 | 毎週火曜日、1月1日、5月1日、12月25日 |
料金 | 8ユーロ ミュージアムパスOK |
HP | http://www.palaisdecompiegne.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
ヴェルサイユ宮殿(Château de Versaille)
太陽王ルイ14世によって建てられた豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿は、フランスの黄金時代を象徴するモニュメントです。
ここだけは絶対に外せない、マリーアントワネット巡りで最重要の場所と言っても良いでしょう。
オーストリアの女帝マリア・テレジアの11人目の娘であったマリー・アントワネットは、14歳のとき政略結婚によりフランスに嫁いできました。
1770年5月16日、宮殿内にある王室礼拝堂で、王太子ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットの婚礼の儀式が行われます。
当時、フランスの王室の暮らしは、宮廷中の貴族たちに公開されていました。
ヴェルサイユ宮殿の生活はマリー・アントワネットの想像を超えるもので、目覚めから就寝まですべてが公開され、プライバシーが一切ありませんでした。
出産でさえも衆人環視のもとで行われたというから驚きです。
こうした窮屈なしきたりや暮らしにうんざりしていたマリー・アントワネットは、束縛のない自由な場所を求めるようになりました。それが安らぎの離宮プチ・トリアノンだったのです。
詳しい情報に関しては「世界遺産ヴェルサイユ宮殿の歴史と見どころ」にまとめています。
ヴェルサイユ宮殿 | |
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住所 | Place d’Armes, 78000 Versailles地図 |
最寄り | RER C線 Versailles Château Rive Gauche駅 |
時間 | [宮殿] 9:00-18:30(4月-10月) 9:00-17:30(11月-3月) [プチトリアノンとグラントリアノン] 12:00-18:30(4月-10月) 12:00-17:30(11月-3月) |
定休 | 毎週月曜日、5月1日 |
料金 | 21ユーロ 18歳未満無料 ミュージアムパスOK |
HP | http://www.chateauversailles.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
プチ・トリアノン(Petit Trianon)
プチ・トリアノンは、ヴェルサイユ宮殿の敷地内にある離宮で、宮殿からは約2㎞離れた場所にあります。
もともとルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の別邸として、建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルの設計によって建てられたものでしたが、ルイ16世によってマリー・アントワネットに与えられました。
ヴェルサイユ宮殿の厳格な慣習や規則に縛られた生活は、マリー・アントワネットにとって息が詰まるものでした。
そのためプチ・トリアノンには、限られた人たちのみが出入りを許されました。
プチ・トリアノンでの生活は、絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿とは違い、マリー・アントワネットの好みの家具や調度品が置かれ、堅苦しい作法や王妃という身分から解放されて、お気に入りの寵臣たちと楽しく過ごしました。
庭園には大理石の「愛の神殿(Le Temple de l’amour)」を建て、プチ・トリアノンのさらに奥には、王妃の村里と呼ばれる「ル・アモー(Le Hameau)」も作らせます。
美しい田園風景の広がる村里の中心には、王妃の家が建てられ、まさにマリー・アントワネットの楽園でした。
自由と安らぎを手に入れたマリー・アントワネットでしたが、多額の国費をつぎ込み、国民の反感を買うことになりました。
ヴェルサイユ宮殿と同様に、詳しい情報に関しては「世界遺産ヴェルサイユ宮殿の歴史と見どころ」にまとめています。
ヴェルサイユ宮殿 | |
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住所 | Place d’Armes, 78000 Versailles地図 |
最寄り | RER C線 Versailles Château Rive Gauche駅 |
時間 | [宮殿] 9:00-18:30(4月-10月) 9:00-17:30(11月-3月) [プチトリアノンとグラントリアノン] 12:00-18:30(4月-10月) 12:00-17:30(11月-3月) |
定休 | 毎週月曜日、5月1日 |
料金 | 21ユーロ 18歳未満無料 ミュージアムパスOK |
HP | http://www.chateauversailles.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
フォンテーヌブロー宮殿(Château de Fontainebleau)
フォンテーヌブローはイル・ド・フランスでも屈指の美しい森をもち、昔から王族の狩猟場でした。
16世紀初頭にフランソワ1世が、古い狩猟館をルネッサンス様式の美しい宮殿に改装し、それ以降、歴代の王によって増改築されたため、中世から近代までの建築様式を見ることができます。
宮殿内には、「王妃の寝室」と呼ばれる部屋があり、アンリ4世の王妃マリー・ド・メディシスからナポレオン3世の皇后ウージェニーまで歴代君主の妻たちの寝室として使われました。
王妃の寝室にある豪華なベッドは、マリー・アントワネットのために作られたものでしたが、マリー・アントワネットが使うことは一度もありませんでした。
また王妃の寝室と王の寝室の間には、王妃の私室があります。
フランス革命時に多くの家具や調度品が奪略されてしまいましたが、ナポレオンによって家具が新調され、装飾などの改装が行われました。
詳しい情報に関しては「世界遺産フォンテーヌブローの行き方・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
フォンテーヌブロー城 | |
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住所 | 77300 Fontainebleau 地図 |
最寄り | Fontainebleau Avon駅 |
時間 | 9:30-17:00(10月-3月) 9:30-18:00(4月-9月) |
定休 | 毎週火曜日、1月1日、5月1日、12月25日 |
料金 | 14ユーロ ミュージアムパスOK |
HP | musee-chateau-fontainebleau.fr |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
チュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)
チュイルリー宮殿は、現在のルーブル美術館(旧ルーブル宮殿)とコンコルド広場の間にあった宮殿で、王家の宮殿として使われていましたが、ヴェルサイユ宮殿が造営されてからは、しばらく放置されていました。
1789年にパリ市民が蜂起し、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットら国王一家がパリに連れ戻されると、再びチュイルリー宮殿が王家の居所となります。
しかし、1791年に国王一家はヴァレンヌ逃亡事件を起こします。
結局、国外逃亡計画は失敗に終わり、この事件をきっかけにルイ16世の権威は失墜し、国王一家はチュイルリー宮殿で幽閉状態となりました。
1793年、パリに集結した義勇兵とサンキュロットと呼ばれる武器を持った民衆がチュイルリー宮殿を襲撃します。
宮殿は陥落し、これによりフランス王政は崩壊します。そして国王一家は、チュイルリー宮殿からタンプル塔へ移され、監禁されることになりました。
詳しい情報に関しては「チュイルリー公園の行き方・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
チュイルリー公園 | |
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住所 | Place de la Concorde, 75001 Paris 地図 |
最寄り | メトロ1号線Tuileries駅 メトロ1,8,12号線Concorde駅 |
HP | https://www.parisinfo.com/musee-monument-paris/71304/Jardin-des-Tuileries |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
タンプル塔(Tour du Temple)
ヴァレンヌ逃亡事件により、国王一家はより警備の厳重なタンプル塔へと移されます。
12世紀にテンプル(タンプル)騎士団の本拠地のあった修道院で、建物の一部にタンプル塔と呼ばれる大きな塔がありました。
窓が小さく出入口が狭いため警備が容易であることから、チュイルリー宮殿で脱出を試みた国王一家を幽閉するのには格好の場所でした。
タンプル塔では、質素な生活と厳しい監視が付けられましたが、従者2名と侍女4名が許されていました。また監視付きとはいえ、庭の散歩もすることができました。
しかし革命はますます過激化し、1793年に国王ルイ16世がギロチンにより処刑されると、マリー・アントワネットは息子ルイ・シャルルとも離れ離れにさせられてしまいます。
そしてマリー・アントワネット自身も「死の控え室」と呼ばれていたコンシェルジュリーへと連行されていきました。
コンシェルジュリー(Conciergerie)
タンプル塔からコンシェルジュリーに移されたマリー・アントワネットは、独房から出ることは許されず、囚人として処刑されるその日までを過ごしました。
フランス革命時に王族や貴族を収容する監獄として使用されたコンシェルジュリーは、「一度収容されると生きては帰れない」と言われていました。
マリー・アントワネットの死後、ルイ18世は、彼女が収容されていた独房跡に「マリー・アントワネット記念礼拝堂」を造らせました。
また部屋の一角には、ルイ16世とルイ16世の妹「エリザベート王女」に捧げられた石碑も置かれています。
コンシェルジュリーには、マリー・アントワネットが2ヶ月半あまりを過ごした独房を再現した部屋があります。
1793年、コンシェルジュリーで「カーネーション事件」が起こります。
王党派であったアレクサンドル・ルージュヴィルがマリー・アントワネットの救出を試みました。
しかしそれも失敗に終わると、コンシェルジュリーでの待遇は悪くなり、ついにマリー・アントワネットは、裁判にかけられました。
マリー・アントワネットの有罪は、最初から免れないもので、死刑の判決を受けました。
処刑の日の朝、マリー・アントワネットは、コンシェルジュリーの中庭から諸競馬へと向かいます。
詳しい情報に関しては「コンシェルジュリーの行き方・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
コンシェルジュリー | |
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住所 | 2 Boulevard du Palais, 75001 Paris 地図 |
最寄り | メトロ4号線Cité駅 メトロ1,4,7,11,14号線Châtelet駅 |
時間 | 9:30-18:00 |
定休 | 5月1日、12月25日 |
料金 | 13ユーロ 18歳未満無料 ミュージアムパスOK |
HP | http://www.paris-conciergerie.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
コンコルド広場(Place de la Concorde)
パリで最も有名なコンコルド広場は、かつて血なまぐさい舞台となった場所です。
フランス革命期には「革命広場」と呼ばれ、ルイ16世やマリー・アントワネットを始め、約1300人がギロチンで処刑されました。
1795年に恐怖政治が終焉すると、現在のコンコルド広場という名に改められました。広場の中央には、エジプトから贈られたオベリスクが立ち、現在はパリを代表する観光スポットの1つになっています。
処刑の日、多数の兵に取り囲まれたマリー・アントワネットの乗った荷車は、コンコルド広場へと向かいました。
途中、群衆に罵声をあびさせられても、王妃として威厳のある態度を保っていたといわれています。
1793年10月16日、コンコルド広場にて、マリー・アントワネットは37歳の生涯を閉じます。
詳しい情報に関しては「コンコルド広場の行き方・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
コンコルド広場 | |
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住所 | Place de la Concorde 75001 Paris 地図 |
最寄り | メトロ1,8,12号線Concorde駅 |
HP | https://www.parisinfo.com/transports/90907/Place-de-la-Concorde |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
贖罪礼拝堂(Chapelle Expiatoire)
ギロチンにより処刑されたマリー・アントワネットの遺体は、マドレーヌ墓地に運ばれました。
ここにはフランス革命により処刑された人々の遺体が運び込まれ、1793年に処刑されたルイ16世の遺体もありました。
王政復古によりブルボン朝が復活すると、ルイ18世が王位につきました。
ルイ18世はマドレーヌ墓地を買い取り、兄である国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの遺体発掘を命じました。これにより、2人の遺骸は王家の霊廟であるサン・ドニ大聖堂に移されたのです。
贖罪礼拝堂 | |
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住所 | 29 Rue Pasquier, 75008 Paris 地図 |
最寄り | メトロ9号線Saint-Augustin駅 |
時間 | [4月-9月] 10:00-12:30 / 13:30-18:30(火-土) [10月-3月] 10:00-12:30 / 13:30-17:00(火木金土) |
定休 | 毎週月・日曜日 |
料金 | 大人7ユーロ/18歳未満無料 ミュージアムパスOK |
HP | http://chapelle-expiatoire.monuments-nationaux.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
サン・ドニ・バジリカ大聖堂(Basilique cathédrale de Saint-Denis)
サン・ドニ・バジリカ大聖堂には、メロヴィング朝フランク王国の初代王クロヴィス1世からルイ18世までの歴代王と王妃が埋葬されています。
大聖堂内にあるサン・ルイの礼拝堂には、ルイ18世によって作られた「ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの像」があります。
フランス革命で、ギロチンにより処刑された2人の遺体は、マドレーヌ墓地に葬られていましたが、ルイ18世によりサン・ドニ・バジリカ大聖堂に遺骸が祀られました。
また大聖堂の地下には、10歳という若さで病死したマリー・アントワネットの息子ルイ・シャルル(のちのルイ17世)の心臓も収められています。
詳しい情報に関しては「サンドニバジリカ大聖堂の行き方・営業時間・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
サン・ドニ・バジリカ大聖堂 | |
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住所 | 1 Rue de la Légion d’Honneur, 93200 Saint-Denis 地図 |
最寄り | メトロ13号線Basilique de Saint-Denis駅 |
時間 | 10:00-18:15(4月-9月) 10:00-17:15(10月-3月) |
定休 | |
料金 | 大人11ユーロ/18歳未満無料 ミュージアムパスOK |
HP | http://www.saint-denis-basilique.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
マリー・アントワネットゆかりの地まとめ
フランス宮廷を舞台に数奇な生涯を送ったマリー・アントワネット。
一国の王妃という立場をきちんと理解し、宮廷の外の世界で起きていることに関心を持っていたら、母親の女帝マリア・テレジアの助言に耳を傾けていたら、こんなにも悲惨で悲劇的な運命を変えられたかもしれません。
「不幸のうちにはじめて、自分が何者であるのかを本当に知るものです。」
ヴァレンヌ逃亡事件後、マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿に幽閉されていたときに、愛人であったフェルセン伯爵に宛てて書かれた手紙に綴られていた言葉です。
この記事を参考にマリーアントワネットの生涯を歩き、自分の人生と比べて思いを馳せてみてください。
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当ブログ「フランスボックス」ではパリ在住者が教えるホテルの選び方と安全でコスパの良いおすすめエリアでホテルに関する注意点や知っておきたい情報をまとめました。
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予算はどれくらいかかっても一流ホテルに泊まりたいという方は、パレスホテルの代表、オテルリッツをおすすめします。
ココシャネルやダイアナ妃にも愛されたパリに行くすべての人達が憧れる、フランス最高峰のホテルで、サービス、食事、設備どれをとっても申し分なく、私にとって人生最高の滞在でした。
かなり高額な宿泊代とはなりましたが、一生の思い出に1泊だけ泊まることができ悔いありません。
ヴァンドーム広場が目の前で、オペラ座までも500mと観光するにも抜群の立地。
絶対に忘れられない滞在になること間違いなしなので1泊だけでもぜひ検討してみてください!