《月の光》や《亜麻色の髪の乙女》で知られるドビュッシーは、叙情感溢れる作品を数多く残したフランスの作曲家です。
斬新な作曲技法により、20世紀の音楽に大きな影響を与えました。
当ブログ「フランスボックス」では、鋭敏な感性をもち、近代音楽の扉を開いたドビュッシーゆかりの地をご紹介していきます。
当サイト限定クーポン
フランスのツアーやチケットは
現在どこも価格が高騰中
クーポンで少しでもお得に購入しよう!
現地ツアーはもちろん
入場チケット・バス送迎にも使えるよ
このページの目次
クロード・ドビュッシー(Claude Debussy)とは?
クロードドビュッシー(Claude Debussy) | |
---|---|
出没年 | 1862年8月22日-1918年3月25日 55歳で直腸癌により死去 |
様式・流派 | 象徴主義 |
出身 | フランス(サンジェルマンアンレー) |
代表作 | 《ベルガマスク組曲より「月の光」》 《プレリュード集 第1巻より「8.亜麻色の髪の乙女」》 《ノクターン》 交響詩《海》 |
影響を受けた人物 | ラヴェル、サティ |
影響を与えた人物 | ラヴェル |
幼少期
ドビュッシーは、1862年8月22日にパリ西部に位置するSaint Germain en Layeで5人兄弟の長男として誕生。
両親は陶磁器店を営んでいましたが、経営不振により店をたたみ、一家は母親の実家に身を寄せます。
1867年、一家はパリへ移り住みますが、1871年に父親がパリ・コミューンで逮捕されると、一家は困窮。
そのためドビュッシーは、2年ほどカンヌに住む叔母Clémentineのもとで過ごしました。
そこでドビュッシーはピアノに出会い、ピアノ教師Ceruttiから初めて音楽のレッスンを受けます。
ドビュッシーが9歳のとき、ショパンの弟子で、フランスの詩人ヴェルレーヌの義母夫人Madame Antoinette Flore Mauté de Fleurvilleから音楽の手ほどきを受ける機会を得ます。
ドビュッシーの才能を見抜いた夫人は、ドビュッシーにパリ国立音楽院(コンセルヴァトワール)の受験をすすめました。
1872年、ドビュッシーは難関をくぐり抜けて、10歳でパリ国立音楽院に入学。
芸術キャリア
音楽の基礎を学び、在籍中、ドビュッシーはピアノコンクールなどで数々の優秀な成績を残しました。
ピアニストになることを目指していましたが、途中から方向転換して作曲家を目指し、1878年にピアノ曲《フーガ》を作曲しています。
1880年、チャイコフスキーのパトロンとして有名なロシアの大富豪フォン・メック夫人の長期旅行にドビュッシーはピアニストとして同伴しました。
ドビュッシーといえば、内向的な性格だったにもかかわらず、スキャンダラスな女性関係が有名な話です。
若い頃から数々の女性と浮き名を流したドビュッシーでしたが、36歳のときにRosalie Texierと結婚。
しかし5年後、裕福な銀行家夫人であったEmma Bardacと不倫し、妻ロザリーは自殺未遂を起こします。
結局2人は離婚し、ドビュッシーはエマと再婚。古典的な音楽から近代音楽への扉を開いた偉大な作曲家も、プライベートでは紆余曲折の人生だったようです。
1883年、ドビュッシーは作曲家の登竜門といわれたローマ賞で《放蕩息子 L’Enfant prodigue》を作曲し、大賞を受賞。
この受賞によりローマ留学の権利が与えられ、ドビュッシーは22歳から24歳までの2年間をローマで過ごします。
1889年に開かれたパリ万国博覧会で、ドビュッシーはインドネシアの民族音楽「ガムラン」のアンサンブルの演奏を聞き、強い衝撃を受けました。
1903年、ドビュッシーはレジオン・ドヌール五等勲章を受賞。
晩年、ドビュッシーは直腸癌に苦しみます。
1918年3月25日、ドビュッシーは55歳で短い音楽人生の生涯を閉じました。
ドビュッシーは、クラッシック音楽史の中で印象派の作曲家として分類されることが多いですが、本人は印象派よりも象徴派と呼ばれることを好んでいたようです。
というのも、もともと印象派という言葉は、クロード・モネの作品《印象・日の出》を評論家が皮肉ったことに始まり、好意的な意味を含んではいませんでした。
Stéphane MallarméやPaul Verlaineなどの象徴派の詩人たちと交流のあったドビュッシーは、彼らから多くの影響を受け、ドビュッシー独自の音楽が確立されていきました。
ピアノ曲《月の光》はヴェルレーヌの詩《月の光》から、管弦楽曲《牧神の午後への前奏曲》はマラルメの詩《牧神の午後》から着想を得て作曲されたものです。
クロード・ドビュッシーゆかりの地巡りのベストシーズン
フランスのベストシーズンは1年中と言っても過言ではありません。
どの季節も素晴らしいのですが、お墓参りやパリの街を散策するなら気候の良い春から秋にかけてがおすすめです。
4月~10月までは営業時間が延びる施設が多く、多くのスポットを観光することができますよ!
クロード・ドビュッシーゆかりの地2選
①クロード・ドビュッシー博物館
パリ西部から20kmの場所に位置するサンジェルマン・アン・レーにドビュッシーの生家が残っています。
現在はドビュッシー博物館として、一般公開されています。
Aristide Maillolによる大理石の彫刻《音楽、ドビュッシーに捧げるモニュメント》をはじめ、日本の漆器盆やアール・ヌーヴォーのオイルランプなど、ドビュッシーの素顔を物語る品々が展示されています。
詳しい情報に関しては「ドビュッシーの生家へ行ってきた!行き方・見どころ徹底ガイド」にまとめています。
クロード・ドビュッシー博物館 | |
---|---|
住所 | 38 Rue au Pain, 78100 Saint-Germain-en-Laye 地図 |
最寄り | RER A線Saint-Germain-en-Laye駅 |
時間 | 14:00-18:00(水木金) 15:00-19:00(土) 15:00-18:00 |
定休 | 月曜・火曜 |
料金 | 5ユーロ |
HP | https://www.seine-saintgermain.fr/fr/fiche/797419/un-musee-a-la-gloire-du-celebre-compositeur-claude-debussy/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
②パッシー墓地(Cimetière de Passy)
パリ16区、トロカデロ広場の一角にあるパッシー墓地には、ドビュッシーのお墓があります。
ドビュッシーの2番目の妻で、声楽家でもあったエマ・バルダックと2人の間にできた娘クロード・エマも同じお墓に眠っています。
ドビュッシー以外の芸術家には下記の人物がいます。
パリのお墓巡りは日本と違って明るい雰囲気なのでお散歩するにも楽しいですよ。
- フランスの作曲家
クロード・ドビュッシー - フランスの作曲家・オルガニスト
ガブリエル・フォーレ - 近代美術の父と呼ばれる画家
エドゥアール・マネ - 印象派を代表する女性画家
ベルト・モリゾ - フランスの劇作家
ジャン・ジロドゥ - ファッションデザイナー
ユベール・ド・ジバンシィ
パッシー墓地 | |
---|---|
住所 | 2 Rue du Commandant Schloesing, 75016 Paris 地図 |
最寄り | メトロ6,9号線Trocadéro駅 |
時間 | 8:00-17:30(月-金曜日) 8:30-17:30(土曜日) 9:00-17:30(日曜日) |
定休 | |
料金 | 無料 |
HP | https://cimetiere-de-passy.com/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
クロード・ドビュッシーゆかりの地まとめ
同世代のフランス人作曲家のラヴェルやサティからも一目おかれていたドビュッシーの音楽は、ジャズやポップス、BGM、映画音楽に至るまでさまざまなジャンルの音楽に大きな影響を与えました。
次世代の音楽への先駆者となった偉大な作曲家ドビュッシーに思いを馳せながら、彼の音楽を改めてじっくり聞いてみてはいかがでしょうか?
パリのホテル選びは本当に難しく、日本と違って価格と質が一致しないことも多いため、あらかじめ、情報をインプットしておくのがおすすめです!
当ブログ「フランスボックス」ではパリ在住者が教えるホテルの選び方と安全でコスパの良いおすすめエリアでホテルに関する注意点や知っておきたい情報をまとめました。
日本人に最も人気のエリアで、わたしたちもおすすめするオペラ座周辺のホテルについてもぜひご覧いただけると嬉しいです!
予算はどれくらいかかっても一流ホテルに泊まりたいという方は、パレスホテルの代表、オテルリッツをおすすめします。
ココシャネルやダイアナ妃にも愛されたパリに行くすべての人達が憧れる、フランス最高峰のホテルで、サービス、食事、設備どれをとっても申し分なく、私にとって人生最高の滞在でした。
かなり高額な宿泊代とはなりましたが、一生の思い出に1泊だけ泊まることができ悔いありません。
ヴァンドーム広場が目の前で、オペラ座までも500mと観光するにも抜群の立地。
絶対に忘れられない滞在になること間違いなしなので1泊だけでもぜひ検討してみてください!