20世紀初頭にフランスへ渡り、エコール・ド・パリのメンバーとして活躍した日本人画家の藤田嗣治。
のちにフランス国籍を取得し、「foufou(お調子者)」の愛称で親しまれていた藤田は、瞬く間にパリの美術界で人脈を広げ、名声を築き上げました。
このページでは、激動の時代を生き、画家・彫刻家・写真家・陶芸家などさまざまな肩書きを持つ多彩な芸術家である藤田嗣治ゆかりの地をご紹介していきます。
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藤田嗣治とは?
藤田嗣治(Léonard Tsugouharu Foujita) | |
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出没年 | 1886年11月27日-1968年1月29日 81歳で膀胱癌により死去 |
様式・流派 | エコール・ド・パリ |
出身 | 東京 |
代表作 | 《寝室の裸婦キキ》パリ市立近代美術館 《最後の晩餐》ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂 《カフェにて》ポンピドゥ・センター |
影響を受けた人物 | ピカソ、キスリング、モディリアーニ |
幼少期から学生時代
藤田嗣治は、1886年に東京で誕生しました。
4人兄弟の末っ子で、父親は陸軍軍医総監にまで昇進した裕福な家庭で育ちます。
幼い頃から絵を描くことが好きで、14歳のときにパリ万国博覧会の日本中学生代表の1人に選ばれ、水彩画を出品した経験がありました。
森鴎外の勧めもあって、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科に入学し、西洋画を学びます。
当時の日本はフランス印象派の影響が強く、学校では、藤田の作品は全くといってよいほど評価されませんでした。
卒業後は、舞台芸術の制作を手伝いながら3年連続で文展に出品しましたが、すべて落選します。
こうして日本の画壇でも評価されなかった藤田は、のちに活動拠点をフランス・パリに移します。
1912年、藤田は女学校の美術教師だった鴇田登美子と結婚。翌年、妻を日本に残して単身フランスへ渡り、これにより結婚は1年あまりで破綻します。
芸術キャリア
パリのモンパルナスに居を構えた藤田は、Amedeo ModiglianiやChaïm Soutine、Jules Pascin、Fernand Légerなどと知り合い、彼らを通じてHenri MatisseやPablo Picasso、Ossip Zadkine、Jean Cocteauなどと親交を深めました。
パリの画壇では、印象派に代わってキュビスムやシュルレアリスムが台頭し、藤田は東京美術学校の教えから脱却して自身の作風を模索し始めます。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本からの送金が途絶え、藤田の生活は貧窮。
それでも制作は続けましたが、暖をとるために大量の作品を燃やしてしまい、この頃の作品はほとんど残っていません。
第一次世界大戦が終局に向かい出した1917年、カフェ「La Rotonde」で知り合ったフランス人美術モデル(娼婦として生計をたてていた)のFernande Barreyと2度目の結婚。
次第に藤田の絵が少しずつ売れ始め、同年にはパリのシェロン画廊で、初めての個展を開きます。
そのときにピカソの友人で著名な美術評論家であったAndré Salmonが、藤田のために図録序文を書いてくれました。
独自な技法に脚光を浴びた藤田は、その後シェロン画廊と7年間の契約を結ぶことに成功します。
1920年、Man Rayの恋人だったAlice Prin、通称「モンパルナスのキキ」と知り合います。
キキは、藤田のためにヌードモデルを務め、藤田は裸体の描写を始めます。
1922年の「Salon d’automne」に、藤田は油彩画に日本画の技法を取り入れた「乳白色の肌」の裸婦「寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)」を出品。
1924年、藤田はフェルナンド・バレーと離婚すると、当時21歳のLucie Badoudと3度目の結婚。
翌年には、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られました。
1929年に妻リュシーとともに日本へ帰国した藤田は、寵児として迎えられ、展覧会では大成功を収めました。
リュシーとの関係は長く続かず、リュシーがRobert Desnosと愛人関係にあったため離婚。
1931年から2年間、藤田はモデルで新しい恋人のMadeleine Lequeux(こちらも21歳)と中南米を旅しながら個展を開きました。
1936年にマドレーヌが急逝すると、藤田は再びパリに戻ります。同年東京に滞在中だった藤田は、料亭の仲居をしていた堀内君代を見初めます。
25歳もの歳の差がありましたが、藤田は君代と5度目の結婚。こうして藤田にとって最後の妻となった君代と30年以上の歳月を連れ添いました。
第二次世界大戦が始まると、藤田は日本へ帰国し、従軍画家として戦地へ赴き、戦争記録画の制作を手がけました。
そのときに描いた戦争画《アッツ島玉砕》は、藤田の傑作ともいわれている作品です。しかし終戦後、藤田に戦争責任追及が波及。
それから逃れるため、藤田は君代とともにアメリカへと渡ります。
1950年、パリに戻った藤田は再びモンパルナスに居を構え、二度と日本へは戻りませんでした。
1955年、藤田はフランス国籍(日本国籍は抹消)を取得します。
1957年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与され、1959年に妻君代と共に、ランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。
Léonard Tsugouharu Foujitaという洗礼名を授かり、その頃から宗教画の制作を手がけるようになりました。
晩年
晩年の藤田は、子供の作品をたくさん描いています。藤田自身には子供がいなかったため、これらの作品を自分の子供であると語っていたそうです。
1961年、パリ郊外のVilliers-le-Bâcleに移住。
藤田嗣治の最後の住居兼アトリエとなった場所で、約1年をかけて藤田自身が自分好みに家を改装しました。
藤田は絵画だけでなく、数々の工芸や手仕事を得意としていました。
最上階のアトリエには、ランスに建てた「ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)」の内部に描いたフレスコ画の習作が壁一面に描かれています。
1964年、藤田は80歳という年齢で、ランスの「フジタ礼拝堂」とも呼ばれる「ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂」の建設と壁画の制作を手がけます。
これが藤田にとって人生最後の大仕事となりました。2年の歳月をかけて完成された礼拝堂は、まさに藤田の集大成といえるでしょう。
1968年、藤田嗣治はスイスのチューリッヒで81歳の生涯を閉じました。
ランスのノートルダム大聖堂で葬儀が行われ、遺体は「ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂」に埋葬されています。
藤田嗣治ゆかりの地巡りのベストシーズン
フランスのベストシーズンは1年中と言っても過言ではありません。
どの季節も素晴らしいのですが、日が長く観光が楽しめる季節と言えばやはり春から秋にかけて。
美術館だけがお目当てであれば、あえて、オフシーズンでリーズナブルな冬の期間も良いと思います。
藤田嗣治ゆかりの地6選
①モンパルナス(Montparnasse)
モンパルナス駅を中心に近代的な建物が立ち並ぶモンパルナス。
この地区のランドマークであるモンパルナスタワーは、パリでは珍しい59階建ての高層ビルで、夜景スポットとして人気があります。
1920年代、パリに集まった外国人芸術家たちは、モンパルナスを拠点として活動します。
モンパルナス大通りとラスパイユ大通りが交わるヴァヴァン交差点を中心とした一帯には、Le DômeやLa Rotonde、La Coupole、Le selectといった有名カフェが立ち並び、芸術家たちが足繁く通いました。
お金のなかった画家たちは、コーヒー代の代わりに絵を描いて置いていったため、カフェには今でもたくさんの絵が飾られています。
外国人芸術家たちにとって、当時人気のあったモンマルトルは物価が高すぎたため、より暮らしやすい場所を求めてやって来たのがモンパルナスでした。
なかでもMarc Chagallやシャイム・スーティン、藤田嗣治などの「École de Paris」の中心となった場所で、パブロ・ピカソもモンマルトルの「洗濯船」からモンパルナスへと移ってきました。
1913年、父親の資金援助を得てフランスに渡った藤田は、パリのモンパルナスにある集合住宅兼アトリエの「Cité Falguière」に居を構えます。
近くには、アメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンなども住み、交流を深めました。
またモンパルナスの外れには、「La Ruche」と呼ばれるアトリエもあり、そこにはマルク・シャガールやフェルナン・レジェ、アンリ・マティスなども出入りしていました。
1920年代、パリには多くの日本人が訪れ、なかでも大富豪の薩摩治郎八はフランスの社交界に入り込み、その豪遊ぶりから「バロン薩摩」と呼ばれた人物。
薩摩治郎八は、藤田嗣治をはじめ、パリで活躍していた日本人芸術家を支援しました。
②国立近代美術館(Musée national d’Art moderne)
ポンピドゥー芸術文化センター内にある国立近代美術館は、ヨーロッパ最大規模の近代絵画コレクションを所蔵し、近現代美術の傑作が見られるパリで人気の美術館の1つ。
フォヴィスムからキュビスム、抽象派、藤田嗣治やマルク・シャガールをはじめとするエコール・ド・パリ、シュルレアリスムといった作品が展示されています。
藤田嗣治の所蔵作品として《カフェにて Au café》や《友情 L’Amitie》、《花咲く河岸、ノートルダム大聖堂 Le quai aux fleurs, Notre-Dame》などがあります。
ポンピドゥー芸術文化センター | |
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住所 | Place Georges-Pompidou, 75004 Paris 地図 |
最寄り | メトロ11号線Rambuteau駅、 メトロ1,11号線Hôtel de Ville駅 メトロ1,4,7,11,14番線Châtelet駅 |
時間 | 11:00-21:00 ※12月24日、12月31日は19:00まで |
定休 | 毎週火曜日、5月1日 |
料金 | 15ユーロ 18歳未満無料 ミュージアムパスOK |
HP | https://www.centrepompidou.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
③パリ市立近代美術館(Musée d’ art moderne de la Ville de Paris)
パレ・ド・トーキョーの東棟にあるパリ市立近代美術館は、1920年代から現代までの近代美術作品を集めた美術館。
Raoul Dufyによる巨大な壁画《電気の妖精 La Fée Électricité》やアンリ・マティスによる《ダンス Dance》の連作などをはじめ、キュビスム、エコール・ド・パリ、シュルレアリスム、現代に至るまでの20世紀の素晴らしい美術作品を見ることができます。
パリ市立近代美術館所蔵の藤田嗣治の作品《寝室の裸婦キキ》は、「モンパルナスのキキ」と呼ばれていたアリス・プランがヌードモデルを務めました。
この作品は藤田の名声を上げ、エコール・ド・パリを代表する画家の1人として確固たる地位を築きあげます。
パリ市立近代美術館 | |
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住所 | 11 Avenue du Président Wilson, 75116 Paris 地図 |
最寄り | メトロ9号線Alma-Marceau駅 |
時間 | – |
定休 | 1月1日、5月1日、11月1日、12月25日 |
料金 | 7-13ユーロ 18歳未満無料 |
HP | https://www.mam.paris.fr/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
④メゾン・アトリエ・フジタ(Maison Atelier Foujita)
藤田嗣治の終焉の地「ヴィリエ・ル・バクル」は、パリから南西に約30㎞離れた小さな村。
ここには、藤田嗣治の住宅兼アトリエだった家が今でも残されており、ガイド付きで藤田の暮らした家を見学できます。
展示されている作品はすべてオリジナルで、藤田の愛用した絵画道具をはじめ、家具や食器などの日用品が藤田の生前のまま置かれているのが見どころ。
また部屋の至るところにブリキ細工やカーテン、テーブルクロスなど、工芸や手仕事を得意としていた藤田の作品を見ることができます。
1960年、74歳だった藤田は、当時人口350人ほどだった小さな村に家を購入。
18世紀の農家だった家を約1年かけて自分好みに改装したといいます。
正面から見ると2階建ての家は、実は庭側から見ると3階建ての建物で、1階は居間と寝室があり、2階と3階は、すべてアトリエになっています。
アトリエには壁一面に描かれた壁画があり、ランスに建てた礼拝堂の内部に描いたフレスコ画の習作が残されています。
激動の時代を乗り越えた藤田は、人生最後の日々を妻とともに穏やかな地で過ごし、誰からも邪魔されることなく制作に打ち込んだことが容易に想像できます。
メゾン・アトリエ・フジタ | |
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住所 | 7/9 Route de Gif, 91190 Villiers-le-Bâcle 地図 |
最寄り | RER C線Petit Jouy les Loges駅から徒歩1時間半 |
時間 | – |
定休 | – |
料金 | – |
HP | https://www.facebook.com/maisonatelierfoujita/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
⑤ランスのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Reims)
シャンパーニュ地方の中心都市Reimsにある「ノートルダム大聖堂」は、歴代フランス王の戴冠式が行われた場所で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
1959年、藤田は妻君代とともにランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。
そのときに代父を務めたのが、シャンパンの老舗メゾン「G.H.マム(G.H.Mumm)」の社長でした。
「レオナール・ツグハル・フジタ」という洗礼名を授かったフジタは、このころからランスに礼拝堂を建てたいと思うようになったといいます。
ノートルダム大聖堂(ランス) | |
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住所 | Place du Cardinal Luçon, 51100 Reims 地図 |
行き方 | パリ東駅(Gare de l’Est)からTGVで45分のランス駅(Gare de Reims)で下車。そこから徒歩で12分。 |
HP | https://www.cathedrale-reims.com/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
⑥ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)
Aimelaime, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
1964年、友人であったRené Lalouxの依頼を受けて、シャンパーニュ地方にある老舗シャンパン・メゾン「G.H.マム」の敷地内に礼拝堂を建てます。
シャンパン最高峰のシャンパン・メゾンの経営者であったルネ・ラルーは、芸術愛好家であり、フジタの才能を高く評価していました。
フジタは、設計から内部のフレスコ画、ステンドグラス、彫刻など装飾も自ら手がけました。
なかでも礼拝堂内部のフレスコ画は、漆喰を塗った壁が乾く前に描かなければならないため、失敗が許されず、かなりの集中力が必要とされる作業。
また「旧約聖書」を主題に製作したステンドグラスは、フジタの下絵をマルク・シャガールの手によって仕上げられました。
こうして1966年に完成したノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(平和の母子礼拝堂)は、ランス市に寄贈されました。フジタは80歳でした。
ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(平和の母子礼拝堂)は「フジタ礼拝堂」とも呼ばれ、レオナール・ツグハル・フジタとその妻君代は、礼拝堂内のフレスコ画《最後の晩餐》の下に眠ります。
ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂 | |
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住所 | 33 Rue du Champ de Mars, 51100 Reims 地図 |
行き方 | パリ東駅(Gare de l’Est)からTGVで45分のランス駅(Gare de Reims)で下車。そこから徒歩で15分。 |
時間 | 10:00-12:00 / 14:00-18:00(5月2日-9月30日) ※10月1日-4月30日は団体のみ要予約 |
定休 | 毎週火曜日、7月14日 |
料金 | 5.5ユーロ 18歳未満無料 |
HP | https://musees-reims.fr/fr/musees/la-chapelle-foujita/ |
※最新情報は公式サイトでご確認ください。
藤田嗣治ゆかりの地まとめ
猫と女性を得意な画題とした藤田嗣治は、日本画の技法を油彩画に取り入れ、「乳白色の肌」と呼ばれた独自の色使いは、ヨーロッパをはじめ世界で高い評価を得ました。
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